姫小川の由来

 

姫小川の由来

 まえがき

 

私たちの姫小川町は今、二〇〇世帯、人口八二〇人です(昭和五十年八月一日現在)。およそ九十年前明治二十一年の碧海郡姫小川村は五十九戸だったといいます。ずいぶんにぎやかになったものです。この町の歴史は古く、地名の起こりを説明する伝説もあります。それは桜井ではよく知られたことですし、物語のあらすじをきちんと話せる古老も多いと思います。しかし若い人たちの間では必ずしもはっきりとは知られていないのではないでしょうか。このたび、村の方々と神社の社務所を整理したところ、伝説をしたためた書物が出てきました。私自身、何か、なつかしいものに出あったような気がして、うれしくなりました。そして、ちょうど遊園地「古墳の森」が、大勢の方々のお力ぞえで造られた時でもありますので、伝説全文の印刷を思いたったわけです。

 

伝説のなかに河内の壬生という地名が出てきます。そこは今どうなっているか知りたくて、大阪へ電話したところ南河内郡太子町の教育委員会から、予想以上の答がもどってきました。そこには孝徳天皇の御陵がかつて、小松をどの姓が、今も残っているとのことでした。私たちの町には、伝説があるだけでなく、姫君の墓といい伝えられる塚も現存します。歴史と伝説とは区別しなければならないので、物語の全てが史実とは思いません。しかし、何かの事実があって、それに尾ひれがついて、今のものになったように、私には思えてなりません。

 

 こんど、伝説を印刷するにあたって、今の私たちや子倶たちにも読みやすいものにしたいと考えました。そして、桜井中学の校長西村清先生に相談したところ、天野暢保先生に文と註訳を書いていただくことになりました。天野先生は、書きなおすにあたって、今の言葉にないものもあって、どうするか困られ、校長先生や私に相談されましたが、思いきりわかりやすく書きなおしてもらいました。そのために、元の意味をこわしてしまった部分もあるかもしれません。私としては、古いものを洩らさず後世に伝えたいし、かといって、今の人にわからないものではだめだと思います。いたしかゆしですが、ここではとりあえず、後者を重視することにしました。今後三十年か五十年後の人たちが、この冊子や古い書をみなおして、そのときはまた、その時代の人の言葉で伝えてくれればよいと思っています。 この冊子が、歴史をふりかえるきっかけをつくり、心の故郷について考えていく助けとなれば、幸尽です。

  

昭和五十年八月十五日 

姫力  野村 力

 

 

※残念ですが、著者の野村 力様はお亡くなりになっていました。

 ゆかりの誓願寺のご住職もお亡くなりでしたので、誓願寺の総代の方にお話を伺い、野村 力様のご子息様に許可を取っていただき、HPに掲載させていただきました。誓願寺のお隣の檀家の方、総代様、野村様

ご協力を感謝しています。ありがとうございます。

 

 

 

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